大阪府立淀川工科高等学校 吹奏楽顧問 丸谷先生のいい話partⅢ

じゃぁ、早速書きますね 笑

〜眠れる才能の開花〜




人生というものはひょんなことからがらりと変わる。

知人に「就職決まったか?」と決めつけられる訊かれ、カチン・・・・・・・・・・ときた。



















「高校受けてやる・・・」







奮起した丸谷先生は、大阪市内工業高校を受験した。結果、電気科に合格しました。
ところが、入学してまもなく問題が持ち上がったのだ・・・。




・・・お金が一銭もないのである。

入学金もなければ、教科書代もない・・・。
実習の道具すら買えない・・・。

このとき、入学金の後納を学校側にかけあってくれたのだが、担任で吹奏楽部の顧問でもあった先生であった。
この教師のもとで、高校時代は吹奏楽に励むことになる・・・。


そして、丸谷先生は初めてタクトを振り、合奏を指揮する魅力に魅せられたというそうです。

なんとか高校を卒業した丸谷先生は、現在まで勤めることになる淀川工業高校(当時)の電気工学の実習助手となり、以後4年間、大学の夜間部に通い、教員免許の取得に邁進した。
本当のところを言えば、音楽大学へ進みたかった。



・・・だが、それは無理な話だった。


音楽大学へ進学するには才能と運と資金が必要でしたが、それがなかったんですわ・・・」



しかし、教諭のかたわら吹奏楽部で指導をし、やがて1972年、指揮を振るようになるや、眠っていた類い稀な才能が恐ろしいほどに開花し始めた。
実際、この年に初の大阪代表として、吹奏楽コンクールの関西大会へ、2年後の挑戦で全国大会への出場を果たすや、以後こんにちはまで常連で居続けるのだから、もはや快挙を通りこして奇跡に近い。

もちろん、奇跡は偶然から生まれるものではない。部の顧問になってより、丸谷先生は教え乞いたいと思った奏者や指揮者のもとへ熱心に足を運び続けた。世界でも名の知られた人達だったが、皆、丸谷先生の情熱に根負けし、教授してくれた。
中には学校までやってきて、様々な助言をしてくれた指揮者までいる。







「奇跡は努力から生じる。」







丸谷先生の努力は、尋常なものではなかっただろう・・・。

だが、音楽の神様は、さらに試練を与える。



丸谷先生は男性では何万人に一人しか罹らない乳癌を患い、右の乳腺を削除したのである。



「そのせいで、今も腕がこんなに浮腫んでるんですわ・・・・」




と言って、シャツの袖をまくってみせた。





確かに驚くほど浮腫んでるそうです・・・。
しかも、右胸の筋肉が削げ落とされているため、腕がたとえようもないほど重く感じられ、手を上げようとするだけでも辛いそうです・・・。



それをおして、丸谷先生は今日も指揮棒を手にとっている。
いつも、隙のないきびきびした動きで指揮棒を振っている・・・。

吹奏楽部の生徒の内、半数以上は中学時代に楽器を演奏した経験がないという・・・。
野球部やら卓球部やら・・・
まるで異なる部活動を行ってきたらしい。
それが新入生となって入部するや、丸谷先生の指導により、わずか数年で聴くものの全身を音で包み込むような演奏をしてのける。




これは、丸谷先生の教授の妙というより、丸谷先生達との絆為せるものとしか考えられない・・・。


とまぁ、こんなこともアリーノ今に至ってるんだそうです・・・。



深い話ですね・・・ 






じゃぁ、partⅢはここらへんまで


次回ラストpartⅣで会いましょう 笑





じゃ!!