大阪府立淀川工科高等学校 吹奏楽顧問 丸谷先生のいい話partⅡ

partⅡということで早速^^



〜食い扶持を稼ぐ日々〜



個人情報だけど、みなさんが知ってるので・・・

丸谷先生は、1945年9月5日に滋賀県で生を受けた。育ったのは大阪の野田阪神駅前にある商店街。
昼夜問わず、かまびすしい大阪弁が飛び交うところだ。そこで物心がついたのだから、生粋の大阪人と言っていい。
お父さんはその街で理髪店に勤めていた。

「父親は、出張も頼まれたりするほど、腕が良かったんです」

くわえて話も面白かったお父さんの働きもあって、店はたいそう繁盛していた。

一方、お母さんは厳しい人で、丸谷先生をとことん躾け、切羽詰ったような勢いで鍛えた。

「母は長患いでしたから、自分が面倒を見られる内に、強い子にしておかなければという思いがあったのかもしれません」

そんなお母さんが亡くなったのは、1955年。丸谷先生が10歳のころでした。小学校の高学年だった・・・。

その前後、忘れ難い思い出がひとつある・・・




学校の音楽の先生に言われて、あるとき、たまたま持っていたプリマト−ネット(プリマ楽器が発売した、オカリナのような音色の出る笛)という楽器で『朧月夜』を吹いた。


・・・すると、どうしたことか、先生がいきなり泣き出したのである。

そして、しみじみとした表情で「あんたの笛は、ええなあ」と言ってくれたそうです。










普通に吹いただけなのに、どうしてこれほど褒められるのだろう・・・?


と思ったのだが、この感激で丸谷先生の才能が一気に開花したわけではない。




音楽どころではない生活が始まろうとしていたからだ。最愛の妻を亡くしたお父さんは抜け殻のように沈み込み、仕事は徐々におろさかになっていき、やがて理髪店も廃業する憂き目にあったのだ・・・。
家計は坂道を転げ落ちるように火の車となり、銭湯に行く小銭すらなくなった・・・。
やがて米まで底をつき、パンの耳を10円で買って家族で分け、ひもじさを凌いだ。









「自分が働くしかない・・・」











家計の助けというより、生きていくためだ。
お父さんに多大な期待は出来ないし、弟達はまだ幼い・・・。


5年生から6年生にかけ、新聞配達をした。
中学になってからは中央卸売市場で働いた。
朝3時から鯛専門の魚屋に勤め、小さな小さな大八車を曳き、仲買の手伝いをした。

「給料を1万なんぼも貰ったんですわ」




・・・当時の1万円である。


文字通り、家族の食い扶持は丸谷先生の肩にのしかかっていた。
愛用の楽器はいつしか蜜柑箱の机の上に置かれたままとなっていた。
高校に行かず、卒業したら看板屋になろうと心を決めていた。



とまぁ・・・

partⅡはこのへんで





続きは
partⅢで^^



じゃ!!